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「幸福力」を育む文化

「禍福はあざなえる縄のごとし」~アジアの幸福感

 皆さんは今、幸福ですか?
 皆さんにとって「幸福」とはどのようなものですか?
 こう質問されると、日本人は “自分がどう思うか”という条件よりも、“人との比較で規定される幸福”自分が人よりいいかどうかで幸福を感じると言われることもあるようです。誰もがどうしても比較をしてしまいがちですが、他の人と比較せずに自分の尺度を持てるように育てていくことも、幸福を考える時の課題の一つかもしれません。
 最近、「幸福」調査、「幸福度」をはかる、ということが流行していて、京都大学のGlobal COEプロジェクトでも、幸福感の国際比較調査をしました。世界中でさまざまな研究がおこなわれ、WHOのものやWell-being、「幸福」の中身を「幸福観」であると見るもの、「幸福感」を個々のフィーリングと捉えるもの、幸福の度合いは測定可能であると考えるもの、「幸福度」を「満足度」と言い換えようとするものなど、調査の形はいろいろあります。私たちは「幸福とは何か」の定義から始めて、幸福というのは誰もがイメージしているけれど、皆それぞれ中身が違っているのではないかというところから入りました。
 私たちの調査は、教育学、社会学の研究者と共同で、まず「こうふくかん」と言った時、それは幸福についての考え方なのか、それとも幸福だと感じることの方なのか議論し、考え方も感じ方も含めた「幸福のFeeling」と定義してスタートしました。日本、アメリカ、ドイツで、アンケートによる量的研究や、実際に家庭・学校・企業のフィールドに入って観察やインタビューなどの質的研究を進めるうちに、個々の幸福感はその人の背景にある文化や社会の価値観によってかなり違うことが見えてきました。
 たとえばアメリカでは知人に会ったら「Are you happy?」と聞くのがごく普通ですが、韓国では「ご飯食べた?」と聞きます。日本では何と聞くでしょう?通りでちょっと会った時の挨拶に英語圏ではHappyという言葉が出てくる。右肩上がりのサクセス・ストーリーに自らの人生を乗っけていく、ものごとをポジティブに捉える思考の傾向があるようで、そこでHappyというのは、「運がよかった」「ラッキーだった」「気分がいい」といった軽い意味からもう少し深い意味まで、Happyには非常に多くの意味があります。
 一方ドイツでは、Glücklichという言い方をします。「自分はちゃんと真っ当な生き方をしているかどうか」という、いかにも哲学の国らしく内向的で反省的な、「ちゃんと自己実現しているだろうか」と自分の内面を見つめる意味合いが「幸福」の中に含まれる傾向が強いとわかってきました。
 では、日本をはじめ東アジアはどうでしょうか。アンケート調査で「たいへん幸福」「やや幸福」「ふつう」「やや不幸」「不幸」と5段階の選択肢をもうけますと、日本や東アジアの国々の回答者の多くは5や1ではなく、2,3,4あたりの曖昧な答えを選択する。アメリカでは明確に5をつけたりするものですから、比較しますとアメリカのほうがずっと幸福度が高いことになり、それに比べてアジアの人たちは「あまり幸福ではない」というような結果が数字に出やすいのです。日本に「禍福はあざなえる縄の如し」という諺があるように、アジアの人たちには仏教的な「足るを知る」「身の丈で生きる」という発想が背景にあるようで、右肩上がりの「良い事」があっても、つらく大変なことがあっても、いずれにせよ自分の人生を受け止めていくしかないのだというような、ある種の忍耐強さがあることが見えてきました。
 これは、3.11の東北の災害の後でも言われたように、日本の人たちがいかに我慢強く一喜一憂しない――ある種のバランス感覚を持っているということともつながっているのではないでしょうか。

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幸福のみなもと

 2011年に、東西哲学者会議という哲学の国際会議がハワイ大学でおこなわれ、ブータンの幸福研究所の研究員からの報告がありました。
 ブータンでは9つの項目で幸福感をはかっていて、①Life Standard――生活水準。英語のLifeは「生きている意味」「人生」という側面と「日常生活」と両方を意味しますから、このLife Standardにも両方が含まれていると思います。それから②Good Governance、③Ecology、④健康、⑤教育、⑥文化、⑦コミュニティのバイタリティ、⑧Time Use――時間を使うという考え方。このあたりが入っているのは、仏教的な世界観を背景に、自らに与えられている時間をどのように用いていくかということが一つの課題になっているようです。そして⑨心理的な在り様――Psychological Beingです。
 この幸福研究所では、幸福のあり方や、実際に幸福な状態にある人を増やしていくにはどうしたらいいかを研究するだけでなく、幸福な暮らしができる住民を養成するために、トレーナーの訓練もおこなっています。僧侶の研究所の仏教的なトレーニングモデルを使い、幸福実現のための指導員も養成しているのです。
 ブータンでは「幸福の資源」を「幸福のResource」と言います。それはまずEconomic Resource,そしてCultural Resource、Human Resource、Social Resource、Ecological Resourceを挙げていました。この5つをホーリースティックな、全体的で部分と部分が相互に関係しあっている、ブータンの土壌で言うならば曼荼羅的なネットワークとして考えていきたいと発表していました。
 経済的にはあまり豊かなではないにも関わらず住民の幸福度が高いブータン。それはやはり宗教があるからだと言われます。じゃあ宗教的前提がないと難しいかということになりますが、それはおそらく、個人と、個人をつつみ込む社会との間で、“みんなが合点がいく落としどころ”を共有しているということではないでしょうか。
 日本では、地域の神社のお祭り、家族での誕生日のお祝いや年越しなど、幸福の象徴として強くイメージが焼きつきやすい場面を多くの人がもっています。私は幸せであるという状態には、これらのような3つの手がかりがあると私は考えています。「イメージ」「シンボル性」、それから「パフォーマンス」です。
 ドイツでの調査ではクリスマスを祝う家庭に入り、どういうお祝いをして、どういうパフォーマンスがあって、どんな会話があるかを調査しました。日本でも滋賀県北部の家庭に入り、お餅つきから始まって、お舅さん、お姑さんの家事分担、男衆は何をしているか、女衆は何をしているか、寺社の掃除や寄り合いなど、一連の年越し行事を調査しました。「自分にとってのお正月」、「我が家の年越し」というイベントがあり、そこに描かれたイメージをもとに幸福の原型ができていく。年中行事が一つのシンボルとパフォーマンスとイメージを生むのです。“合点がいく落としどころ”の形成として、そのような原体験をサポートしていくしくみがあればいいと思います。無宗教が多いと言われている今の日本では難しいのかもしれませんが、たとえば文化拠点としてのパフォーマンスとシンボル(象徴性)を考えれば、京都には、今はもう地域住民の力だけでは維持できなくなった古い寺社がたくさんあります。そこは宗教の起点であるだけではなくて、文化ネットワークの起点として、伝統的行事や儀礼の伝承、仕事の段取り、しめ縄の結び方、社殿のお掃除、といったものの名残を留めていますから、応援団をコミュニティに送り込むといった形で教育とうまく結び付ける。すでにあるネットワークをもう一度結びなおす、シンボルとパフォーマンスとイメージで合点がいく幸福再生体験を演出していくのです。

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幸福力を養う~二つのものさしの間で

 アメリカ型の右肩上がりのサクセスをHappyと見るような、量的に条件がよくなっていく、拡大していくという成長路線の枠組みでははかれない、ある種の幸福感の原型を、仏教の信仰を持つ国、あるいは日本で見ることができるのではないでしょうか。この点に、今、欧米の人たちが眼差しを向けています。
 右肩上がりで経済が成長しなくなった時に、それでも人々が「そこそこ幸福だ」と感じるのはどういうことなのか。先ほどブータンの例を挙げましたが、幸福度、幸福の資源とは何かを考える上では、量的なものと質的なものとは分けるべきもののようです。自分の生きがいや内面の感じ方、収入が増えるとか社会的地位が上昇する、生活条件が改善されるといったような外的な条件、幸福の資源も多様だということでしょう。
 もっとも、先年、北朝鮮の幸福調査ですばらしい結果が出ました。わが国の国民は非常に幸せであると北朝鮮から発表がありましたが、幸福の感じ方には、国家体制やマスコミなどの洗脳やインドクトリネーションによって操作されやすい側面があることも、調査結果を考える場合や、幸福という言葉を使って社会に対して提言していく場合には留意すべきでしょう。「私たちの幸福の条件」とはどんなものかを考える上では、洗脳やインドクトリネーションになる危険性にも留意しながら結びなおす、住民と自治体の相互性の中で一緒に考えていくような形が求められます。
 幸福の外的条件といえば、衣食住が足りる、経済的に豊かである、社会的な成功を収めるなどがあげられるでしょう。そして内的な条件には、安寧や平穏、あるいは自分が生きている意味や価値を見出すことができるなどでしょう。
 子どもから年配の方までを対象におこなった聞き取り調査によれば、外的条件と考えられる世俗的な幸福、「量としての幸福」には仕事を得て収入があって実生活を充実させることが必要で、社会学的には「労働する身体」と言われますけれども、社会でフル活動している年代の人はどうしても量的・外的な幸福に重きを置かざるを得ないようです。
 ところが子どもたちに聞いてみますと、家族とのつながり、守られている安心感などを幸福とイメージしている。小学校3、4年生くらいの年齢で、自分の幸福イメージを具体的に絵、詩や作文に表すこともできますし、インタビューでもきちんと回答していました。子どもたちにとっての幸福には「自分が帰りつく場がある」「守られている場がある」という原型があって、やがて世俗的な量的なものも必要だと思うようになっていきます。学校に行くようになれば、成績が良くないといい学校に行けないしいい会社にも入れないし、というように。そして人生の途上で、例えば成人して職場で働いてしんどいことがあった時には、自分の帰りつく家庭があり、その中では守られ安心できる、そういうものへのノスタルジーが非常に高まるようです。
 また、老年期と呼ばれる時期に入った人にとってのそれは、生きる意味や生き甲斐、近所とのつながりであったり、あるいは達者であるということ――あえて「達者である」と申しますのは、単に健康だ、病が無いという状態ではなく、病を得ても一病息災で達者に人生を送れること、医学でいえばQuality Of Lifeと言われているものですが――達者で自分の生きる意味を知りつつ日常を生きるということです。一方で子どもの頃から抱いている内的・質的な幸福感もずっと息づき続けていて、最後はそこへ帰っていきます。
 どうやら人間は二つのものさしを生きなければならない。二本のものさしを持ちつつ、それぞれの人生の段階で幸福感をイメージしているようです。
 確かに内的条件と外的条件が密接に関わっていて、どのようにバランスを取ればよいか難しいところですが、私は「主観的」と「客観的」……客観的と言えば一般的な普遍性があるものと言われますが、“主観的な普遍性”もあると思います。それはたとえば景色を見て美しいと思う、家族と一緒にいて楽しいと思う、崇高なものに出会った感動や、お祭りの行事の中で陶酔するとか、人間として「合点がいく」、多くの人が共通して感じることができる何かがあると。そのような主観的だけれども多くの人は共有しているようなコモンセンス、フィーリング、それを地域の環境として行政が設計していくことにも、可能性があるのではないかと思います。
 右肩上がりではない経済状況の下でも、生きる意味、生き甲斐、質的な生活や人生の意味づけを枯渇させない。それが「身の丈に適う」「足るを知る」という時の日本的な強さ――耐える柳の強さ――生きる術とでも申しましょうか、成人してからしんどい状況になった時に折れない、ある日突然不幸に見舞われても対応し乗り越えていくことを可能にする原点のようなものであり、そこから幸福感を捉えていくことができるのではないでしょうか。これを私は「幸福力」と呼んでいます。たとえばカロリーバランスのいい栄養豊富なメニューを日常の食卓で食べた場合と、何かショックなことがあった状況で同じメニューを無理やり身体に流し込んだ場合とでは、摂取カロリーは同じだけれど身になるかどうかはまた別です。このあたりの違いをわかって、日々、自分の状態に合わせてメニューや摂取量を調節することができる能力です。
 そしてこの幸福を感知する力は、大学や自治体などとの協同により、教育やトレーニングのしくみを整えれば養成することが可能だと考えています。

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関係性の結びなおし~地域で「幸福をデザインする」という試み

 幸福感や幸福にまつわる状況について調査していますと、ちょっとした問題も見えてきます。たとえば「ある地域の住民の皆さんの幸福」を考える場合に、もちろん自治体はサポートするけれど、「私」という自律する個人もいて、ともに考え作り上げていくという姿勢が不可欠です。ところが、調査を通して逆に弱体化していく危険性もあるようなのです。アンケートを受ければ受けるほど、回答する人は、自分自身の問題であるにもかかわらず、自分自身の状況の外に出て裁く目・評価する目で自分の状況をチェックしてしまう、個としての自分がいなくなってしまうという傾向です。住民はまるでテレビ番組のおもしろさを評価する視聴者のように自分自身の状況を身から離して、一般的にはこれが理想だと考えられているはずで、そこから考えると自分はどうかという見方をしてしまう。その結果、一般的な理想からすれば「あれも足りない、これも足りない」という受動的な不足感ばかりが増えていく悪循環に陥って、その不満や不平がつのるばかりということになりがちです。
 本来語り合うべき場から離れてしまった人間がもう一度手をつなぎ合わせていくためには、新たな協同のしくみを形成する必要があるのかもしれません。
 自治体が調査を通してニーズを把握し、それに応えるために何かするという関係は、サービスをする側とニーズを出す側として一方通行に固定されている限り、そのような悪循環を脱することが難しい。住民が自分の幸せを個々に思い描き、それが具体的なニーズとして集約される場面にも、カウンターのあちらとこちらではなく、隣り合わせて、あるいは車座になって参加する関係、ニーズそのものを協同で創出していくような関係の取り結びはできないものでしょうか。内側からちょっと変えていくだけでも、案外大きな転換につながっていくきっかけになり得るのではないでしょうか。
 例えば私たちの調査では皆さんに「幸福だった経験」について聞き取りをしています。ライフステージは実に多様、病気で入院中の方もいらっしゃるし、中学生や高校生もいる。それぞれが自分の幸福だった時の思い出を語り始めると、その内容は世代によっても性別によっても違います。思い出体験を語っていただいて見えてくる幸福の原形、その条件をリストアップしてみると、ブータンにおける「幸福の資源」のような、私たちの幸福の要素が見えてきます。皆さんから集めたキーワードを「ヒューマンリソース」「ソーシャルリソース」「エコロジカルリソース」、それぞれどの資源に属するかグルーピングしてみる。自治体が、今度のこういう施策にはこの点とあの点を組み合わせてつないだら、このリソースの要素に結びつく、また別の施策には、あっちで出てきた幸福のリソースの中からピックアップしたいくつかを束ねれば押さえられるなんて言うように、その地域の幸福のキーワードを拾うというのも、一方通行ではない「幸福のデザイン」の魅力ある方法だと思います。
 この信頼と信託の関係作り、まさに幸福の内的条件――思いが人をつくり、思いが社会や世界をつくっていくという、眼には見えないけれども人と人との間を流れているもの、あるいは国や地方自治体と人の間に通い合う関係性が地域の未来を形作っていきます。まさにクレジットです。このような関係性のしくみ、質的な時空間を「オイコスOikos・エコEco」と呼んでいます。

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人間の幸福と「文明の火」のゆくえ~有機的生存圏を広げる

 さて「オイコス・エコ」って何でしょう?たとえば、ある日家族が自分の部屋を「なんて散らかってるの!」と大掃除します。ところが、あまりに整然とした部屋になってしまって本人は落ち着かない。雑然としていても、必ずしも効率的な配置ではなくても、そこにその物があることで自分の空間になる。人は、馴染んだものを身近に置き自分が居心地がいいと思う配置にすることで、自分のテリトリーを作っています。ですから「私のテリトリー」が少し広がっていけば「落ち着く我が家」、それがもう少し拡大すると地域、社会。自分にとって有機的で居心地がいい、馴染んでいる、そういう感覚でつながり広がっていく質を持った生存圏、それがオイコスです。
 そして「エコ」は、エコノミーとエコロジー。語源を遡ると、エコのギリシャ語はもともとオイコスで、人間的に把握可能な宇宙(コスモス)という意味があったと言われますから、「エコノミー」は人間的に考えられる宇宙、まさに生存圏にあたるでしょう。そういった身近にあってリアリティを持って想像できるある種の生存圏、これを組成しているのがエコノミーであり、その考え方がエコロジー、と言いましょうか。現代の私たちはエコノミーとエコロジーは全く別のもの、経済と環境と考えて生きていますが、本来は同じ、オイコスを考え形成することだったのです。
 個々のBodyは、「身」、単に器官としての身体ではなく、身の上話で「相手の身になって考える」「身を通してわかる」などと言う時の「身」は、「私」と周りの人との関係など、有機的で社会的なつながりも含まれています。馴染みがあって自分が居心地の良い「身」。そしてその「身」が住処とする場として我が家があり、地域のコミュニティや、更には国へ、宇宙へつながっていきます。
 歴史的には、オイコスとして重要だったのが宗教と文化でした。ヨーロッパでも、ギリシャでも、儀礼でお祭りをするために行く場が必ずありました。寺社や聖殿に集まってお願いをする、何か新しいことをするために身を清める。宗教はまた、音楽、美術、文学や芸能など芸術をも生み出す豊かな文化でもありました。そしてそこが、地域コミュニティや自治体、国や宇宙といった、より抽象的な大きな世界につながっていくための「つなぎの場」でした。

 このようなことを考えていた折、たまたま若狭地方を訪ねる機会がありました。いわゆる原発の街というのが連なっている辺りを車で回ってまいりまして、ちょっとびっくり致しました。立派な駅や文化施設があるのに、人がほとんどいない。街が有機的な場として人と結び合わず、無人の非常に閑散とした状況を一見した時、いま抱えている原発の問題を考えていく上で、社会的なネットワークと近代的な原発というものの取り結びが、うまくいかないまま来ているように思われました。
 若狭の一滴文庫にもまいりました。水上勉さんが原発について書いている文章があります。
 いつまでも、美しくあれ、と私は故郷に合掌する。
 そうして、知足の心根をつちかわれた仏教国が、かかえこんでいる文明の火のために、どのように燃え、どのように亡びるかを見ずに死ぬのかと思う。
 母のもとにゆくのかと思う。
 正しく諸行は無常である。
 これはエッセイのほんの一部分ですが、いま日本が置かれている、あるいは置かれてきた状況が、この数行に込められています。短くつむいだ言葉が、マクロ・コスモスとしての大宇宙を、わが身の一番近いところに表現してつなぐことができる。文学、すなわち文化というものは、大きなものと身近なものをつないでいくとても大きな力を持っているのだと、あらためて思いました。文化によって、オイコスを形成することによって、人間は、個人から世界へ、宇宙へ、広がっていくことができるし、そうすべきであると。

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呼吸する文化~京都からの発信

 幸福について、様々に思いをめぐらせていくうちに人間の文化に至りました。
文化は、もちろん文化遺産などと呼ばれるものばかりを言うのではなく、ものの考え方や生き方、お祭りや儀礼や芸術、あらゆるものを含んでいます。
 日本人の誰もが持っていた日常の暮らしの中にも、それは生きてきました。たとえば主婦が家事をするにはその仕事に段取りをもつ、食材を残さずに調理できる知恵がある、暑い夏を快適にやり過ごす知恵があるといったものは、どのように伝承されてきたのでしょうか。それも文化の力です。あるいは伝統的な知恵を生かして昔ながらの木造の家の暮らしを楽しむ、スローライフとも言われますが、そのライフスタイルには、ただ昔に戻るのではなく、最新のテクノロジーや発想も取り入れ、古きよきものをリニューアルしていく知恵をともない、これも文化と呼ぶことができるでしょう。足るを知り過剰を好まない経済性、環境負荷を少なく、しかも自然と共に在り自然を楽しむ居心地よさを旨とする日本文化は、まさに「オイコス・エコ」を具現したものではなかったでしょうか。
 人間の力量や質を高めていくという意味で、生きる術、まさに「呼吸する文化」と呼べるのではないでしょうか。文化の活性化といいますとどうしてもアートだとか芸術というふうに考えてしまいがちです。しかし、文化はもっと広い意味をもっていると考えることもできます。ものの見方やものの考え方、習慣や価値観など、何世代もかけて次第に継承されてきたもの総てを意味しているのではないでしょうか。
 私の研究室で学ぶオランダから来た留学生のミランさんは、祇園祭についてもよく知っています。なぜなら彼がいたライデン大学で使う日本学の教科書に祇園祭が詳しく載っているから。その教科書はアメリカの大学でも採用されていて、そこに祇園祭が載ることによって、日本における京都の象徴性というものが教育の一環として世界に知られていきます。韓国では、2010年に、世界各地の大学で韓国に関する文化が学問 -韓国学と呼ばれています- を学ぶ人たちに向けて、研究の助成金や韓国への留学資金の援助の額を拡大し、話題になっていました。韓国ドラマをはじめ韓国の今を映し出すような音楽や映画、芸術のファンが世界中に広がることで、韓国という国のイメージや韓国人への印象も大きく変化しています。文化政策というのは、こうしてその国のイメージを身近なものにすることで国際理解を推進させ、海外友好の輪を拡大させ、さらには、外交政策へとつながっていっているのです。
 日本のイメージ戦略やここ京都の象徴性を考えれば、それが大きなブランド力を有するという観点で――もちろん伝統芸能やアートも結構なのですが、それをただ漫然と振興するということではなくて、その先に、どのような戦略をもって発信していくのか。観光ブランド・京都のイメージだけではなく、対外政策に直に関わる戦略として、文化を要に考えていく。京都には、そういう可能性もあるのではないかと思います。

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