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身をもって知る〜教育がもつ可能性の芽”人は変わり得る”

「自分で気づく」というわかり方

 友人が親御さんを亡くしたと知った時、事実としては頭の中で確かにわかっているのですが、友人の心の内は、実際に自分が親を看取り、見送ってみて初めて実感するなどということがあります。あるいは、大きな手術を前にしてどんな後遺症が出てくるかをお医者様が詳しく丁寧に説明してくれる。患者もそれをちゃんとメモに取ったりして聞いていたつもりだけれども、いざ後遺症が出て初めて「ああ、そういえば術前にそう言われていたな」と思い出す――私たちは日ごろそんな「わかり方」をしています。
 身をもって知る、わかるというのは、なかなか難しい。
 私たちは何か情報を得てそれを知ったとき、それでもう「わかった」ような気持ちになります。けれども単にその情報を知る―knowing―ということと、それを本当に自分のこととして理解する―understanding―「知る」と「理解する」の間にはかなり距離があるようです。情報が入ってきて、それを一般的なこととして受け止めてはいても、必ずしも本当にその意味するところを理解しているわけではありません。
 あるときふと腑に落ちる、ぱっと霧が晴れたみたいによく見えるようになるなどと言いますが、自分自身で気づく瞬間があると、私たちは今までとは全く違った世界と出会うことができます。そこで初めて、自分の身の上に起こって「わかる」体験になります。「身をもってわかる」「自分で気づく」という体験を通してこそ、本当の意味で学ぶことができる、気づきに至るのかもしれません。まさに自分の身に刻むという学び方です。
 今日、体験学習などで実感をともなってわからせることの重要性が認識されてきています。では、実際に子どもたちが「身をもってわかる」「自分で気づく」という体験を、授業の中ではどうすれば設計できるのでしょうか。

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時熟を待つ ~授業の設計と「たわみ」

 先生が生徒に一方的に知識を伝達するのではなく、生徒自身がdoing――何かすることを通して、実感をもってものごとを把握する体験を授業の中に取り入れるにはどのような工夫が可能でしょう。
 子どもたち一人一人が、いつどの瞬間にどのように腑に落ちて世界を開くことができるのかは、予め計画することができません。どんなに緻密に学習指導案というシナリオを書き、徹底的に計画したからといって、授業がシナリオ通りに進むとは限りません。また、シナリオがあまりに出来過ぎていると、先生はそのシナリオに向かって子どもの体験を誘導しすぎてしまうことがあります。シナリオ通りに授業が進行して、先生は「これでうまく行った、これで授業は成功した」と思ってしまうかもしれません。「この先生のシナリオに乗っていくことが、先生が自分に期待していることなのだ」と、まるで「わかった」かのようなノリで先生の期待に応えようとする生徒も出てきてしまいます。あるいは、シナリオに強引に引っ張られてしまうことに戸惑う、流れに乗れない生徒も出てくるのではないでしょうか。出来過ぎたシナリオから、かえって歪みが出てしまうことにもなりかねません。
 そこで先生がなしうるのは、子ども自身が自分で気づく瞬間をできるだけたくさん体験できるように、授業の中で仕掛けていくことではないでしょうか。計画不可能なことの設計、仕掛け、それを授業の技として緻密に織り込む。これは技の修練にも似ています。授業はまさにライブですから、即興性も必要です。先生はどこまで授業を設計し、そしてどこにたわみを持たせておけばよいのか。その「感じ」をつかんでいくのが先生の重要な課題です。「愛は機を得て花開く」と言うように、どんなに思いをかけ愛情を注いでも、それには「機」というタイミングがあって、時が熟してやっと、そのときでなければならない瞬間が訪れます。その訪れに向かって自分の構えを持っていく。設計の中のたわみのバランス、これは先生としての技を磨く修練の最も難しいところかもしれません。

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愛は機を得て花開く ~芸術作品創造における美の誕生にも似て

 先生は先生としてのわざを習得していることで初めて専門職たり得るわけですから、やはりわざはなければいけません。一方で、「すべての人に時がある」とキリスト教の聖書では言います。生徒がいつの間にか自分の来るべき時を迎える、時が熟して、やがて子どもが身をもってわかるという流れを、予め計画することは出来ないけれども、先生は、そういう“時”がその子にやって来るとひたすら思いをかけ期待する。そしてそのための準備に最善を尽くす。そのためのわざも懸命に修練する。そういった積み重ねの向こうにこそ、生徒が花開く瞬間を引き込む力が生じる。計画通りにはゆかないけれども、徹底的に設計し、そしてそこに信頼をおき希望を託すことによって、初めてその瞬間が訪れてくるのではないでしょうか。
 先生の仕事は様々な職業に喩えられます。たとえば職人や芸術家。「教育」とほぼ同じように使われている「陶冶」という言葉がありますが、これはドイツ語のBuildungを日本語に訳したもので、陶器の「陶」、冶金の「冶」です。つまり、人間を教育することは陶工や甲冑などを作っていた冶金の職人、物作りの職人と似ていると考えられてきました。このように言うと、人間をまるで陶器や鋳物のように物として捉えて先生の思い通りに製造することができる、教育とはそういう作用だと、狭い強制的な教育のイメージで受け取られてしまうこともあります。けれど、この喩えが用いられていたのはまだ18世紀頃のこと。職人であれ芸術家であれ、いくら作品を完成させようとしても、その作品が最終的に本当に美しい真実の姿で表現されるためには、それを司り見守ってくれる美の女神が微笑んで力を貸してくれなければなしえないというわけです。
 日本にもこのような考え方があります。東洋では木霊と言い方ますが、たとえば木を操る木工職人は木の精の声を聞くことができると。仏師は木を彫って仏像を作るのではなくて、木の中においでになる仏様と出会うために木を彫っていく。仏様が外に姿かたちを現して人々の目に触れるようにお助けする。そういう言い方をします。ですから、芸術が生まれ出る時、それは芸術家や職人が自分で思い通りに作品を作り上げているわけではなくて、その瞬間、自分が作品を作っているのか、それとも自分という体を通して美の女神がその作品を表現しようとしているのか、自分がいったい能動的なのかそれとも受動的なのか、どちらかわからないような状況が訪れていると言われます。

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人間を超えて人間を活かしているものへの信託

 先生の仕事は、農作物や植物の世話をする農業や園芸にも喩えられます。近代以前、植物という「生き物」の世話をするという意味で、野菜作りや植物栽培をする仕事は神聖な職業と考えられていました。なぜなら植物が無事に育つかどうかは天候次第、非常にリスクの大きい仕事であるため、植物栽培をなりわいとすることができる人は、気象、土、水や風を読む力を持っていると考えられていたからです。いくら人間を育てようと思っても、その人にはその人に定められた宿命というものがあり、また、その人自身がそれぞれの環境の中で多くのことを感じ、学び、独自の成長発達を遂げていくことで運命を切り開いていく、そういう力も持っています。ですから私たちが誰かを思い通りに教育しようと思っても、思った通りに育っていくとは限りません。ま さに私たちは、その人間を教育したのかどうかさえはっきりとわからないままに、教育をしているわけです。
 ですから、園芸家や芸術家、職人と同じように、人間の意識を超え、そして人間を生かしている大いなる力と言いましょうか――あるいはそれを運命の力と呼んだ時代もありますし、あるいは偶然の力と呼んだ時代もあったと思います。そのような人間を支え、人間を超えて、人間を生かしている大いなる力の助けによって人間は生きているのだとすれば、人間が成長発達していく方向やその程度、あるいはその人なりの花の開き方にも、人間の力の及ぶ範囲を超えた何ものかの力が働いていると、十分に想像がつきます。先生は、子どもたちが自分が思ったようには育たないということを、「思い通りにはいかない不自由さ」ではなく、むしろ人間の存在に対する、あるいは人間を支えている大いなる力に対する畏敬の念、畏れの念として常に持っていなければならないのかもしれません。
 学校教育が普及した近代以降、教育は、立てた具体的な計画が実現されることが目標達成であるとして、教育の成果とイコールであるかのように考えられてきました。いわば「計画・プロジェクトの時代」と言えます。そのような学校教育の中ではどうしても、目標を設定し、そして目安を定め、その方法を確立し、どの子どもも最低限のレベルに達することのできるようにそれを確実に遂行していくことが教育の仕事だと捉えられます。計画可能な営みとして教育が考えられるようになりますと、人間を超えて人間を支えている大いなる力とか、あるいは偶然といったものは、教育の現場ではあまり語られなくなってしまいます。
 けれども教育が必ずしも計画通りには進まないこと、これは教育の失敗ではない。教育の持っている不思議な、計画を超えた人知が及ばない部分として、何者かの祝福によって人間が花開き伸びていくことへの感謝や、子どもの可能性というものに期待し、思いをかけ、信託(クレジット)していく。畏れと期待、そういう思いにもう一度目を向けてみることが必要だということではないでしょうか。
 授業をすべて計画通りに上手くやろうと意識しすぎることは、先生にとって過剰なストレスを生んでしまいます。むしろ少し気持ちを楽にして、自分の思い通りに教育がいかない場合もある――それは自分の失敗ではなく、教育には、子どもと先生との関係の中で子どもが変わり、先生もまた変わっていくような、場が先生をつくり、場が生徒をつくっていく“場の力”の影響もあるのだと、考えることができます。
 私がこう教育したから子どもがこう変わった、ではなくて、たまたま教育しようと思って関わった時に、生徒がちょうど変わる瞬間だった、ということもあるわけです。私が変えたのか、生徒が自分自身の力で変わったのかは判然としないけれど、結果として「変わった」としか記録することができないようなもの。おそらく“人を変える”ということは人の力を超えたことであり、人を変えてやろうという人間改造計画をもってして変えようと思っても変わるものではありません。むしろ、人はいつの間にかふと気がついたら変わっている。そういうものではないでしょうか。

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「啐啄(そったく)」の妙

 人間の成長発達を予定立てて計画通りに行おうとすると、臨機応変さやその場が作っていく即興の力を十二分に活かすことができなくなってしまいます。教育の伸びやかな可能性、先生自身が思っている以上に先生の力を引き出していく場の力、子どもがそれに感応して今まで奥のほうに眠っていた能力が花開いていく不思議な力、目に見えず、何時それが発揮されるかを計画立てることもできないものを、私たちは不思議とか偶然と呼びますが、教育の「場」にはもしかしたら教育を支えている神様がいて、その神様が微笑むことによって、人が変わるという、「何か」が起きているのかもしれません。先生が能動的だったのか、それとも受動的だったのかわからない。生徒自身も、自分が何かの力を受けた側なのか、自分が内側の力を発揮したのかがわからない。京都学派の西田幾多郎の言い方をすれば「主客未分」な状況が、そんな不思議や偶然が教育の場にはたくさんあります。
 日ごろの実践の経験を振り返っていただけば、先生方が「生徒に助けられてる」「場に助けられてる」と思うような、そんな不思議な瞬間を授業の中でも体験なさっていると思います。「ふとわかる」「腑に落ちる」「身をもってわかる」とか、自分の中にすとんと落ちた瞬間があるだろうと思います。そういう時はとても居心地がいい。それは、体調もよくてやる気満々で授業の準備もしっかりしているような好条件が重なっていれば必ず訪れるというわけでもありません。むしろ体調が悪いとか、いまひとつ調子が出ないとか「今日はうまく授業ができてないなぁ」というような時に、今まで「教わっている」つもりでいた生徒がふと「先生今日は調子悪そうだ……」と感じて「こうやったらいいんじゃないか」と自分から能動的に工夫するような転換が起きたり、「あ、そういうことだったんだ」と生徒自身が気づいたり、いくら作ろうと思っても訪れなかった“その瞬間”がやってくる、そんなこともあるわけです。
 「啐啄」と言いますが、卵から雛が孵っていくとき、雛は内側から卵の殻を突きます。その時親鳥は、今卵から殻を破って出てこようとしている内側の音に誘われるかのように、同時に外側から同じところを突っついてやります。そうやって親は殻が割れるのを手伝う。内側からの突く力と一緒になって殻は割れる。啐啄の妙と申しましょうか、そういうものを親鳥は本能的にわかっていると言われています。
 教育はやりすぎてはいけない。やりすぎては子どもの自主性を殺いでしまう。かといって放任しておいたのでは子どもは迷ってしまう。この適度な関わり方、度合いというのが、教育に携わる者にとっての永遠のテーマ。実感とか体感とか、体験を通して身をもって学んでもらうためには、先生は怠ることなく綿密に準備し、そういう瞬間がやってくるのを待たなければいけませんし、その時先生がどこまで準備をすべきかということは、教育の現場に携わる人びとの間で共有し考えあう必要があります。

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