ああ~~新幹線

ここのところ、新幹線で京都と東京を行ったり来たりの多い日々が続き、冷房による冷えもあってか、ホームに降り立っても腰が伸びず、身体が「くの字」に折れたまま。腰に負担がかなりかかっているようです。最近では、電波を介して遠隔会議をするところが増えてきているようですが、議決をとるなど正式な手続きとして「サイバー出席」はまだ認められていない場合もあり、「フィジカル出席」を義務づけている会議も少なくありません。

席に出る(出席する)」こと、「プレゼンス」を示すことの意味はまだ失われていないのでしょう。人と人が「顔を会わせる」、その場に「居合わせる」ことと、電波を介して「合う」こととの間に、このIT時代でもまだ何か見えない違いを私たちは感じ取っているのだと思います。

電波会議では何か今一つしっくりこない・・・、きちんと話して物事を決めたという感じがしない・・・そんな違和感は、これからだんだん増えていく方向にあることは確かでしょう。人間は様々な技術文明を自ら作り、それを駆使して生活を便利なものにしてきました。そうした生活の変化に応じて、新たな文明社会に「違和感」なく適応できるように、自分の感覚もまた、環境に馴れるよう自らに仕向けてきました。感覚の馴化こそが、人間がさまざまな時代を生きのびてきた智恵の証ともいえましょう。けれども、この馴化の過程で、それまで「慣れ親しんだ社会とは違う」という違和感が消えていくことにも目を配っていたいなと思うこのごろです。

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七夕の日に

前回、ブログを更新してからかなりの月日が流れました。京都はここ数日、気温37度を超す暑さです。体温よりも気温が高いという状態は毎年のように訪れるのですが、今年は例年より一足早く灼熱の夏がやってきた感じです。

今日は七夕。大西卓哉宇宙飛行士が搭乗する ソユーズ宇宙船(47S/MS-01)が、日本時間の午前10時36分、予定通りにカザフスタン共和国のバイコヌール宇宙基地から無事打ち上げられたと聞きました。50時間ほどかけて地球を34周してから、日本時間の7月9日の午後に国際宇宙ステーション(ISS)とドッキングするのだそうです。時空を旅する大西飛行士の姿はなぜか織姫に会いにでかける彦星と重なります。

 

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プチ飲みの術

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どんな飲み物を口にする場合でも、がぶがぶと一気に飲んでしまう、いわゆるガブ飲みは体によくないとは以前から聞いていました。知り合いの健康達人は、ここ30年、人に進められるまま、飲み物を口にするときには、ちびちびと「噛む」ように飲むことを心がけています。

人はもともと、いくら一度に大量の水分を補給しようとしたとしても、身体への吸収はうまくいかないといいます。ちびちびと口に運んでいくような飲み方で身体に入っていく速度と水分の量あたりが、身体の吸収には適切だということでしょう。

口に含んだ飲み物はそのまま一気に飲み込むのではなく、上下の歯を噛み合わせつつ、口の中でころがし、じっくりと味わってから飲むというのがコツだそうですが、達人の術は徹底していて、口の中で最低100回は噛む動作を繰り返すのです。

飲む時だけではありません。食べるときには、一口分について、なんと500回も噛むことを心がけているそうです。昼食のお弁当はものの10分でパクパクと平らげてしまう人が多い現代で、ここまで食べ方に凝るという人は本当に珍しいとしか言いようがありません。

達人と向かい合って食事をご一緒したときは、何しろ500回噛むという動作を、食べ物を口に運ぶたびに繰り返すわけで、わたしも見習って同じように、もぐもぐ、もぐもぐやっていました。ほとんど二人とも何もしゃべらず、ひたすらもぐもぐ、もぐもぐの連続。

一人で食べるときにも、これを実行し続けるのは大変ですが、毎日続けている白湯飲みでは、一口100回を心がけてみました。一つ気が付いたことがあります。口に含んで味わっていると、何の味もないように思っていたただのお湯なのに、なぜかまろやかな味に感じられるから不思議です。

 

空くと空ける

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都市開発のための建築ラッシュが進んでも、なぜか空いて残った空地のような部分は、どんな町にも一カ所ぐらいはあるものです。たまたま空いたこの空地。子どもたちはそんな空地を想像力たくましくケンケン遊びや陣地取りなど様々な遊びの舞台として活用してきました。

他方、道路で遊ぶ子どもたちの危険が指摘され、市街地には砂場や遊具を備えた遊び場が設置されるようになりました。

偶然に空いてしまった空地と、遊び場として空けておいた空地。空地としてはどちらも同じなのですが、たまたま空いてできた土地と、計画的に、人工的に造られた遊びのための土地とは大きく異なります。

自然発生的に生まれた空地を活用する時には、子どもの安全管理や事故に対する責任云々は何か不具合が生じない限り、あまり問題にはされません。反対に、遊び場として設置された場合には、管理責任の問題も含めて、色々な決まりも必要となってきます。

子どもの遊びの空間が、教育の仕組みのなかに入ってくると、どうしても管理や責任が発生します。そんななかで、子どもの安全、子どもの保護という観点から、遊び方についてもまたルールが必要になってきます。こうして人為的、計画的な配慮がどんどん積み重なっていくと、少し息苦しい感じもしてきてしまいます。

少しぐらいのかすり傷を作っても、大胆に遊ぶぐらいの逞しい子どもが育ってほしいという気持ちもあるけれど・・・。ここが教育というもののなかなか難しいところです。

 

温感

温度調節が最近、気になっています。哺乳類や鳥類の多くは体温を一定に保つ機能をもつ恒温動物です。私たち人間の体温は36度から37度あたりが平均といわれます。

夏は冷房、冬は暖房と、優秀な温度調節機器に守られた暮らしをしているうちに、からだ自体の温度感覚が鈍くなってきているのでしょうか。季節の変わり目の微妙な温度変化にからだがついていけず、すぐに風邪気味の症状に見舞われる人も少なくないようです。

環境と人間との相互の作用という観点から、人間がこの世界に生きることの意味を思索した思想家に、京都学派の哲学者・三木清がいます。人間は環境に働きかけ、また環境から働きかけられることを通して相互に形成されていると三木はいいます。この相互作用は人間のなかに経験として蓄積され、また、環境と呼応していく技術として磨かれていくのだというのが、彼の考え方です。

そのように考えると、私たちは環境との付き合いをなおざりにしているぶん、経験を感受する力や生きる技術(わざ)もまた弱ってきているようです。温度調節もまた、環境と人間との生き物としてのチューニング。季節のめぐりをからだ全体で受け止めながら、しばし、その「感じ」をからだのなかで反芻する時間も必要だと思うのです。なにしろ、からだは私たちが想像する以上に豊かな「知」を蓄えているのですから。

頭で考える力ばかりが「知」として重要視されがちな現代、感覚や感性、直観や勘など、からだ全体を使って働かせている人間の「知」、「身体知」の働きにも目を向ける必要がありそうです。

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意(こころ)で見る

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電子機器の画面ばかり眺めていると眼にかなりの負担がかかることはよくわかっているのですが、コンピューターに始まり、スマートフォン、テレビ等々、日々自分が眺める先が自然の風景よりも、画面の中ばかりになっていることを痛感します。
毎日、仮想空間を飛び交う多くの情報を眼にして、一時代前よりも私はなんと多くのものを見ていることかと思う反面、私が本当に「見ているもの」とは一体何なのかしらと立ち止まることもあります。
禅語に「眼不自見、刀不自割 めはみずからをみず、かたなはみずからをさかず」という言葉があります。眼は眼自体を見ることはなく、刀はその刀自体を切り裂くことはありません。眼はすべからくあらゆるものを見ていると思いがちですが、自身の眼自体を自ら見ることはできません。己自身のことについては実は見えていないというのが私たち人間が置かれた状況なのでしょう。
外界を見ていると、なんでも自分には見えるから、見えるものについてはなんでも分かっていると思いがちです。けれども、私たちが見たもので記憶にとどめているのは、そのごく一部にすぎません。意識の置き方で、私たちが注意を向けたものにしか眼がいかず、また、自分の思い込みや先入観に促されて、外界に勝手に濃淡をつけて見ているだけなのかもしれません。
自分がつけてしまっている濃淡の癖は、なかなか自分では矯正できません。自分が持っている勝手な原則かもしれない、と自分の癖を見直すには、視力が及ばない、記憶に留めないままにしてきた世界に思いを馳せることも必要でしょう。
視力が及ばない世界、暗闇の彼方を見るためには、器官としての眼だけでなく、意(こころ)を用いて見ることについて今一度考える必要がありそうです。

食の心得

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大学のお昼休みの時間は12時から13時までの1時間。12時に授業を終え、いくつかの個別の質問に答え、それから一般道路を隔てた向かい側地区に位置する自分の部屋に戻ると12時20分。13時からの授業に間に合うように12時55分には部屋を出るとすると、正味35分というところでしょうか。この間に昼食を取り、持ち物を揃え、ちょっと身だしなみを整え、行くべきところにも立ち寄り・・・。お昼の時間はいつもあっという間に過ぎていきます。

ついつい、サンドイッチなどを食べながらコンピューターに向かって仕事もするという「ながら食」状態。これが、家で仕事をしている日などでも常態化していくと、まさに「ながら孤食」人間になっていってしまいます。

食事というのは、食の事。事であるからには、社会生活を営む人間にとって、仕事と同様、社会的な行動に他なりません。作法に則り、お行儀よく、また、共に食する人たちとの会話も楽しむという意味で、食は文化なのだといわれます。

宇宙飛行士の若田光一さんが、機長として宇宙船に乗り込んでいた時に一番気をつけていたことは、やはり乗組員の絆。その絆を確認し、チームとしての力を蓄えるために、毎回、食事は乗組員全員でとるようにしていたと聞きました。やはり食事は人間が単なる生き物ではなく、人との関わりのうちに生きる社会的存在なのだということを教えてくれる場です。

しかし、それ以上に、人と一緒に食べる食べないだけではなく、一日の決まった時間に、食事用にとあつらえた場所で、作法に則って食べるという意味で、食は習慣的な一種の儀式として人間の暮らしの質を支える大切な要素なのだと思います。孤食は何かをしながら・・・という「ながら食」へと陥り易いという点で、生活のリズムを崩していく危険をはらんでいるともいえそうです。

たとえ一人で食卓につくとしても、食のための時間と場所とを確保する、食べるときにはスマホもコンピューターも、そしてできればテレビも消して、食をじっくり楽しむこと ー これが本当は生活の基本なのですね。自戒を込めて改めて思います。

 

学術出版社

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学術書の出版は今や大変困難な時代に突入しています。人文社会科学の分野では、専門誌に学術論文を掲載することだけでなく、一冊の本の形で自分の仕事を発表することが重要であることは、21世紀の現在でも変わりません。

今や原稿用紙にして500枚、1000枚といった大部の博士学位論文を出版することは、至難の業。出版助成金を得てそれなりのお金を出版社に支払う、あるいは買い取りという形をとらない限り、出版社としても、どれだけの部数が売れるかという点で一般書に比べてリスクの高い学術書を引き受けてくれる会社は少なくなってきています。

知り合いの学術出版社でも研究書を中心にした方針から、大学の授業用教科書を軸にした方向へと転換せざるを得ないといった状況を耳にしています。

こうした状況は日本だけではありません。1980年代に7年ほど暮らしていたドイツでは、学術書籍組合(Wissenschaftliche Buchgesellschaft、略してWBG)という組織がありました。年会費を払って組合員になり、毎年1冊はそこから本を購入するというのが唯一のルール。大学で学ぶ時の基本的な文献はもとより、もうなかなか手に入らないけれど勉強のためには欠かせない書籍の復刻版など、WGBは学術のあらゆる領域にわたって、自分のところで出版した本を中心に豊富な品揃えで定評がありました。

WBGの母体が設立をみたのは、戦後5年にも満たない1949年のこと。第二次世界大戦の間にドイツでは2500万冊に及ぶ書籍が失われました。失われた書籍を復刻しようという動きはあったものの、紙不足はもちろん戦後復興の経済的に厳しい状況のなかで作業はなかなか進みません。そうしたなかで、テュービンゲンの マッティーセン出版社の社長マリウス・マッティーセン(Marius Matthiesen)氏の協力で、軌道にのせることができたといいます。

昨年、創立65周年を迎え、大学生向けの入門書を中心にした電子書籍にも力を入れ始めたようです。1980年代、当時学生だった私が払っていた年会費は5マルク(500円)でしたが、現在では一般は15€、学生は7,50€になっています。今でも私は現役組合員を続けています。Web上で本の注文ができ、少し送料はお高いですが、日本に居ながらドイツの本を注文できます。電子出版など新たな時代の動きに応えて組合組織の学術出版がどこまでサバイバルできるのか、またどんな独自性を模索していくのか、今後の展開に注目しています。

 

10番目の月 - 12月

今年も早いもので、もう12月を迎えました。12月は英語でDecember。

Decemberは、数字の10を意味するラテン語のdecemに由来します。もともとは10番目の月という意味です。

なぜ、現在では12月を意味するDecemberが10番目の月なのか?

これは、古代ローマ時代に最初に採用したローマ暦にまで遡ります。ローマを建国したロムルス王の名前にちなみ、正確にはロムルス暦とよばれるこの暦では、1年は3月に始まり2月に終わっていました。3月から数えて12月は10番目の月にあたるので、December(ラテン語読みではデケンベル)と呼ばれていました。

ちなみに、ロムルス暦で一年を表わすと、

3月は Martius (マルティウス、軍神マルスの⽉)
4月は Aprīlis (アプリーリス、美の⼥神ウェヌスの⽉)
5月は Māius (マーイウス、豊穣の⼥神マイアの⽉)
6月は Jūnius (ユーニウス、30⽇、結婚⽣活の守護⼥神ユーノーの⽉)
7月は Quīntīlis (クィーンティーリス、quīntus 5番目の⽉)
8月は Sextīlis (セクスティーリス、30⽇、sextus 6番目の⽉)
9月は September (セプテンベル、30⽇、septem 7番目の⽉)
10月は Octōber (オクトーベル、31⽇、octo 8番目の⽉)
11月は November (ノウェンベル、30⽇、novem 9番目の⽉)
12月は December (デケンベル、30⽇、decem 10番目の⽉) となります。

ものの名前にはその背後に長い歴史があることが改めて思われます。

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青が集まる

群青色が以前から気になっていました。

子どもの頃に買ってもらった色鉛筆。青よりも深くて、少し紫を帯びた色。漢字の読み方が分からなくて、「ぐんじょういろ」と教えてもらった時、青という字は「じょう」とも読むのだと初めて知りました。

青が群れて、重なる海の底。銀の甲冑に守られたようなシーラカンスが背びれを悠々と揺らしながら泳いでいる。

夕なずんだ空が真っ暗になろうとする瞬間、沈む間際の太陽から注がれる真っ赤な光を薄く浴びて濃い夕焼けと闇の間にできる色。

群青色を調べてみると、英語ではウルトラマリン。群青とはもともと藍銅鉱(アズライト)あるいは瑠璃(ラピスラズリ)の和名だそうです。古代からラピスラズリは最強の聖石、強い霊力を宿した石として珍重され、時の権力者はこぞってその装飾品にこの深い青の色を用いたといいます。原産地は主にアフガニスタンをはじめとする西アジア地域。

ルネサンス期のヨーロッパでは、アズライトやラピスラズリを粉砕し壁画や絵画などの顔料として用いていました。その貴重さから、純金とほぼ同等の値で取引されていたといいます。

ウルトラマリンという名前には、地中海を超えてやってくるものという意味が込められていたそうです。

 

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