ケッツァルコアトル

今年の梅雨は台風の到来とも重なり、九州地方をはじめ日本各地に記録的な大雨の被害をもたらしています。今朝の京都は梅雨の合い間を縫って、太陽が顔を出しました。すると、丘を越えて蝉の声が聞こえてきました。

突然ですがケッツァルコアトルをご存知ですか。英語表記ではQuetzalcoatl。

アステカ神話に登場する水の神だそうです。ギリシア神話のプロメテウスと同様に、人類に文明をもたらした神、とりわけ農耕技術をもたらした神といわれています。

アステカの古代ナワトル語では、ケッツァルは鳥の名前、コアトルは蛇のことだといいますから、翼あるいは羽毛のある蛇、あるいは翼竜の姿をしていたようです。

宗教画に描かれたケッツアァルコアトルの姿は、長い尾を巧みに操り空を飛翔しています。古代アステカの人たちが仰ぐ空にはこんな不思議な神の姿があったのでしょうか。

人間は今や、技術や機械はもちろんのこと、あらゆる文化・文明を全て自力のみで創り出しのだと考えてしまいがちです。けれどもこの科学の時代にあっても、人間には未だ解明できていないこと、不可解なことがたくさんあります。私たちは今もたくさんの謎と生きているのだと思います。

調べてみたところによると、東京の代々木公園には、メキシコ政府から寄贈されたケッツァルコアトルの像があるのだそうです。

 

消えたもの大辞典

時代が大きな変化を遂げようとしているとき、様々な分野での新旧交代劇が展開します。時代というものを一つの生き物に喩えるなら、思いっきり前進しやすいように身を軽くするという感じでしょうか。

もはやあまり利用価値がないと思われるもの、もっと便利なもので代替され役目を終えたと思われるものは次々と廃棄処分となっていきます。新陳代謝ではないけれど、時代という生き物もそうやって生きのびてきているのでしょうか。

言葉もそんな時代の産物。時代とともに、新しく生まれた言葉を収めようと思うと、辞書の容量はある程度決まっているので、どうしてもあまり使われなくなった言葉は「死語」として葬り去られていくことになります。

そうやって、「死語」として葬られた数々の言葉の裏に、どれほどの人間の営みや智恵が宿っていたことか - 今を生きる私たちが捨ててきた茫漠たる沃野がそこには広がっています。

何を捨て何を残すかという取捨選択の連続こそが人類の文明の核を形づくって今日があるのだと思います。でも、その取捨選択の眼が鈍っていたとしたら???

未練というわけでもないのですが、これから捨て去っていくかもしれないもの、あるいは意図しないままに忘れ去ってしまったもの、いつのまにか目の前から消えていきつつあるものを、ここらで一度、書き留める作業も意味があるのではないでしょうか。

『世の中から消えたもの事典』を編纂するとなると大事ですが、まずは私の暮らしから消えていったものを振り返ってみようと思います。

 

 

向日一心

今年で85歳になる素敵な友人がいます。友人といっても、亡き母の友人だったので、「おば様」といつも呼んでいます。熱海にお住まいなのですが、週に1回はフランス語を習いに新幹線で東京に出かけ、10日に一回は南伊豆に住むやはり同年配のお友達の家に行って、ワイングラスを傾けながら、その方のレコードコレクションから数曲一緒に耳を傾けるのが楽しみという暮らしです。

つい数年前までは3日にあげず水泳に通っていたのですが、南アフリカに昨年でかけたときに体調を崩し、それから今は少し体調に留意して控えているとのこと。

スーパーレディそのもの!お会いするたびに、その活力の源、若さの秘訣を聞き出したいと思わず色々たずねてしまいます。

彼女の答えはいつもこうです。

守っていることは2つだけ。物事はすべて日の当たる方に考えること。そして、シンプルに考えること。

言葉にすると簡単ですが、これを守るのはかなり努力がいることだなと思います。

昨夏の猛暑の折、バテ気味で暑い暑いと愚痴を言った時には、「サウナに入らなくても、こんなに汗をかけるなんて、最高!と思ったらいいじゃない」とばっさり一言。

常にそうやって、自分と環境との関係を調音していくことを心がけるのが大切なのですね。良き人生の先輩です。

 

 

 

日本の哲学

「日本にも哲学、ドイツ語でいうPhilosophieはあるの?」

ドイツ・ケルン大学哲学部に留学中に、ゼミの仲間のドイツ人学生から、ごく普通に尋ねられたものです。ノートを貸し借りしたりしてそれまで親しく一緒にやってきていた同僚たちが、急に遠く感じられたことを今でもありありと覚えています。

ただ、ドイツの学生たちからすると、ヨーロッパ中心主義的というか、優越感だけでそうたずねたわけでもなく(意識には上っていたというのではなく)、極東の島・日本に古来からある「哲学」はいったいどんなものなのだろう?という神秘的なものへの素朴な関心がそう問わせたのかもしれません。

確かに、ドイツ語でいうPhilosophie、言い換えれば、ドイツを代表し、世界に「哲学の国ドイツ」というイメージを定着させることに成功したドイツ観念論哲学でいうところの「哲学」にすっぽり当てはまるような「哲学」が日本にあるかと言われたら、答えに窮していまいそうです。

日本のことを専門に研究している人たちにいわせれば、西洋の人間からみたら、宗教に近いような思想が、日本的な哲学なのだということになります。

こうして議論が錯綜するときは、もとい、原点に還って、もともとの「問い」そのもの、「問いの問い方」から検証するのが一番。というわけでよくよく考えてみると、「その国固有の哲学とは?」という質問の仕方そのものが無理なものではないかとも思えてきます。

ドイツとて、古代ギリシア以来のいわゆる古典ギリシャ哲学を吸収し、いえ、言い換えれば「ドイツの土壌に根付きやすいようにカスタマイズし」てきて、今日のドイツの哲学を打ち立ててきたといえます。

日本の場合も、同様に、古代ギリシア、古代中国など様々な思想的遺産を摂取するなか思想を編んできた歴史があります。ただ、そのように摂取してきたものを「日本化」し、吸収合併して、「日本哲学」として打ち出すパフォーマンスという点では、ドイツに比べれば、それほど注力してこなかったといえるでしょう。

派手に発信するだけが能ではありませんが、しかし、「日本に哲学はあるの?」と素朴に問われたときに、少なくとも何かしら応答できるようでありたいものです。世界への発信を視野に入れた思想研究のあり方が今、改めて問われているのだと思います。

おもてなし

お客様を喜ばすというのはなかなか技のいることです。

長い道程をはるばる出向いてくれた人に、お茶を一杯供するにも、色々なことを人は慮っているものです。ここまでの道中はどうだったかなと喉の渇き具合や疲れ具合、また、訪ねる気持ちになってくれたその人の心中も思ったり・・・。

お茶はぬるめがいいか、熱めがいいか、濃いめがいいか薄めがいいか、お茶の淹れ方も含め、按配しなくてはなりません。相手が何を心地よいと思うかしらと相手の身になって考えます。

おもてなしには、そんな人間ならではの様々な慮り、按配がぎっしり詰まっていて、それでいて、気を使わせてしまったかなと相手に重い感じが残らない、さりげなさや軽さ、さわやかさも求められます。

こんな複雑なやり取りを私たちは日常の付き合いのなかで、いつの間にか見よう見真似で覚えていっているのでしょう。

おもてなしロボットの開発も進んでいると聞きます。臨機応変な状況への対応が人間と同様に、あるいは人間以上に常にカンペキにできるロボットが開発される日もやってくるかもしれません。

「機械なのに、まるで人間のように応対してくれて驚いた。」と、今のうちはまだまだ人間のほうがロボットより優れているわと余裕たっぷりの反応をしていても、そのうち、「気分でころころ応対が変わってしまう人間相手より、いつもニコニコ笑顔で応対してくれるロボットの方がいいわ・・・」という事態も訪れないとも限りません。

 

 

終わりの始まり

「終わらない仕事はない。」

仕事が苦痛に感じる瞬間は誰にでもあります。ある先輩は、そんなとき、呪文のように「終わらない仕事はない、終わらない仕事はない」と低くつぶやいていました。

そう、始めた仕事はいつかは終わるのです!そう思ったら、気が軽くなるから不思議です。

そんな先輩がこの3月で退職しました。

先輩曰く、「始めた仕事はいつかは終わる。」

物事には始まりと終わりがあるということ - この理(ことわり)は分かっているつもりでも、自分の身の上に起きたことと重ねながら分かるまでは、本当に分かるまでには至りません。

仕事が早く終わって欲しい時にも、職場から去るという区切りの時にも、少しもぶれることなく事の真実を照らしているゆえに、理は理なのでしょう。

物事の区切りと向かい合う時に、自分なりの美学のようなものを感じたいと思うことがあります。理に叶うことで美しくあることができるのかもしれません。

 

 

 

 

身体というもの

私たち人間は「時」という乗り物に乗って「この世界」を生きています。いえ、「この世界」こそが「時」によって成り立っているといったほうがいいのかもしれません。そして、乗り物である「時」は、寿命という形でそのレンタル期間が決まっています。蝉にはおよそ7日、人間にはおよそ80年という具合にです。

どんなに進んだ技術を駆使して、移動距離を延ばすことができ、到達時間を短縮することで、自分が生きる地球世界の感覚を縮めることができたとしても、私が寝て起きて、食べて、そしてまた寝るという一日、生き物として人間が生きる一日の時間は変わりません。身体というものをもつ限り、私たちの時間の尺が基準となっています。

呼吸の回数、脈の数、内臓を構成する細胞の生まれ変わりの速度などなど、身体のもつ特性によって刻まれる「時」がある限り、私たちは生身の人間としての尺によって条件づけられています。

この限られたいのちの時間は、確かに不老不死を夢見る人間にとっては足かせにはなりますが、見方を変えれば、いのちの時間を尺度にできること、身体というものを尺度にすることで、人間として、していいことと、反対にそれ以上は踏み出してはならないことを見極めているのではないかと思うのです。

 

自然と人工

「1957年、人間が作った地球生れのある物体が宇宙めがけて打ち上げられた。この物体は数週間、地球の周囲を廻った。・・・この物体はしばらくの間は、ともかく天空に留まることができたのであり、まるで一時、天体の崇高な仲間として迎えいれられたかのように、天体の近くに留まり、円を描いたのである。」

これは、ハンナ・アーレントの『人間の条件』プロローグの書き出しです。

アーレントは、地球こそ、人間の条件の本体そのものであり、人間が努力もせず、人工的装置のなしに動き、呼吸できる住み家であるという点で、宇宙でただ一つのものなのだと言い切ります。

よくよく考えてみると、人工衛星と一般に呼ばれているこの物体は、天体という自然の衛星と似たような動きをする「人工」の衛星なのですね。

人工知能もまた、同様に、人間をはじめとする生き物のもつ「自然」の知能になぞらえて「人工」知能と呼ばれていたのだと気づきました。人工知能を問うことは、同時に、自然の知能とは何なのかを問うことと表裏一体なのだと思います。

汎用AI、ヒューマノイド、人工生命など、近年の疑似人間をめぐる科学技術の動きは、人間や生命という自然物を、科学や技術によって人間自らが造り出すことは可能かという挑戦です。人間として超えてはいけない一線を超えて、超人あるいは神のみにゆるされる世界へと踏み込もうとしているようにも見えます。

この世界がことごとく「人工」物で覆い尽くされたとき、果たしてそれは人間の自然への勝利といえるのでしょうか。人は何のために自然と勝負しているのかも未だよく分からないままなのですが・・・。

 

 

 

失われていく技

ここ2年ほどの間に、人工知能をはじめとするICT技術に関わる話がメディアに毎日登場するようになりました。それまではごく一部の専門家の間だけの話と思っていたものが、今や一般の私たちの言の葉にも普通にのぼるほど。これこそが時代の大きな変化の兆しといえるのかもしれません。

時代が大きく変わる時、人間にはどんな変化が起きるのでしょう。日常の生活、普段の仕事に関わるところに起きてくる技術革新の影響は、とにかく便利になんでもできるようになる・・・という形で現れます。便利に慣れてしまうと、もう不便な頃に敢えて戻るなど人はあまり考えません。

鉛筆の先を小刀を使って手で削ることはできますか?

私の母が小学生だった頃には、毎朝、学校に行く前に、先をとがらせた鉛筆を自分で削って用意していたといいます。私が小学生の頃には、手動の鉛筆削り機がありました。その後、電動の削り機が普及し、そのうち、鉛筆よりもシャープペンシルのほうが流行り出し・・・・今や、小刀を使いこなす技を日常的に磨く機会はほとんどなくなってしまいました。

人はそうやって、新しい便利な道具を受け容れ、自分の暮らしの「合理化」をはかって生きてきました。便利な道具を自分の暮らしの一部に統合する - それは自分の能力の一部を道具に代替させて、補完させていくことを意味しています。暮らしに必要ないわば「労働用身体」を私たちは使う道具を増やしながら拡張してきているともいえます。

しかし、そのなかで私たちの仕事の能力もまた変化しています。新しい道具を使いこなす技は新たに学習によって獲得される一方で、他方、それまで道具なしにやってきていたことはもはや道具なしではできなくなっていくのです。

便利な道具がどんどん増えてくる世の中で、その動きに合わせて暮らしを変えていくなかで、新たにできるようになったことと、いつの間にか、できなくなったこと・・・

私たちから失われつつある技や技能にも目をやることが、いつか大きな意味をもつかもしれないと、最近無性に思うようになりました。

鉄腕アトム

「ラララ空を越えて ラララ星のかなた・・・・」 

鉄腕アトムのメロディーが流れてくると、身体にスイッチが入ってしまったようにリズムをとりはじめ、いつしか一緒に大きな声で歌っている自分がいます。

人工知能やロボットがもたらす人間社会について考える研究会というのを今、大学で定期的に開催しています。まずは何を考え議論していく必要があるのかという問題意識や議論の方向性について、学生、教員、それも様々な専門領域の人たちが集まって話しています。

お馴染みの鉄腕アトムは1963年の生まれ。インターネット上で、現在でも手軽に初期の頃のアニメーションを視聴することができます。研究会に参加する人たちには、まずはそれを視聴してもらい、人間とロボットの共生について話し合い、議論を深めていきたいと思っています。

今回、研究会開催に合わせて、久しぶりに鉄腕アトムを視聴し、その主題歌を聞いて心に残った歌詞があります。

鉄腕アトムは「心やさしい 科学の子」そして「心正しい 科学の子」というフレーズです。幼い息子を亡くしたロボット開発者の手によって製作されたアトムですが、アトムはその人間の父以上に、人間の情の分かるロボットとして作品では描かれています。

鉄腕アトムにひどい仕打ちを平気でしてしまう人間群像がそこにはしっかり描き込まれていて、ロボットとの共生という主題を通して、実は、人間という存在を浮き彫りにしようと作者の手塚治虫は考えていたのではないかと思いました。