始めは何でも難しい

「始めは何でも難しい」というのはドイツの諺。

その昔、初めて学会発表に臨むに際して、緊張でガチガチになっていた私に、恩師であるドイツ人の教授がかけてくれた言葉です。その言葉は、今、初めての学会デビューをしようとしている学生たちに、今度は私が送る番になりました。

ビギナーズラックという言葉もあります。初めて挑戦する人は、相手にしている物事の複雑さや困難さをあまり分かっていないので、かえって余計な算段などせずに、まっすぐに立ち向かうことができるので、キャリアを重ねた人よりも、案外あっさりと成功してしまうことがよくあります。

無欲の勝利、無心であることの勁さともいえるかもしれません。

慣れてしまう、馴れてしまうと見えなくなることもあります。ビギナーズマインドで挑むあのドキドキ、わくわくをいつも胸に刻んで挑戦し続けたいものです。

 

思いの地層

昔、亡き父が母に贈った婚約指輪。台座のツメの一つが壊れてもう30年近くになります。このままでは知らない間に石が落ちてしまうこともありそうで、ずっと箪笥の奥に眠らせていました。

先日、ふと思い立ってジュエリーの修理専門店を訪れました。そして、色々と相談した結果、新しい台座に交換することになりました。交換するために石を旧い台座から外し、特製の拡大鏡で指輪の内側を眺めた係の方が、「何かNかMのような文字、それとKでしょうか、文字が掘ってありますよ」と教えてくれました。

Kは父のイニシャルです。そして、母のイニシャルはN。婚約指輪に父がきっと二人のイニシャルを刻んでもらったのでしょう。「もうこんな紅い色の石は私の指には似合わないから、貴女が持っていてね」と母から譲り受けた指輪でした。

 

遠くて近い、近くて遠い

遠隔地と電子ネットワークで繋がるテレコミュニケーションがどんどん身近になるにつれ、目の前の現実とWeb上でのサイバー世界で見聞きすることとを、上手に区別しながら、その二つの世界を行き来するのが、ごく日常的なことになり始めています。

映画や小説、絵画など、文学や芸術が生み出す想像の世界に浸ることで、目の前の現実を生きるための活力を得たり、別の見方を獲得したり、自分だけの自由な世界、内的な世界を心の砦にすることができました。

この想像の世界とサイバー世界とは少し似ていて、かなり違う。サイバー世界での人間関係やコミュニケーションは、フィジカル世界での人づきあいと連動し、相互に直結しながら影響を及ぼし合うところが、なかなかやっかいです。また、サイバー世界でやりとりされる情報を操ることで、現実世界の人間関係に大きな影響を及ぼすことも可能です。

サイバー世界では、実際に遠くに住んでいる人ともリアルタイムで関わることができるので、今や物理的距離はコミュニケーションを以前ほどには妨げになることはありません。しかし、その代り、私たちは物理的に近い人たちと段々疎遠になりつつあるといえるかもしれません。

目の前のコンピューターのスクリーンをのぞき込み、うつむき加減でキーボードを打ち込む姿勢は、自分ひとりの世界に籠ろうとする構えそのもの。電車のなかでスマホ片手にメールやゲームに集中する乗客は、お隣やお向かいの乗客にもはや目をやろうとはしません。カフェやレストランでも、それぞれのスマホを操作することに集中していて、ほとんど会話しないといった光景はもはや珍しくありません。

遠くが近くなったぶん、近くが遠くなりつつあるのかもしれないと思うこのごろです。

 

今どこ?

「あの、いま、電車に乗っているんですが・・・」「いま移動中なんですが・・・」と駅や路上で、携帯電話の相手と話している姿をよく見かけるようになりました。固定電話だったらあり得ないこの会話。携帯しながら移動できる電話が誕生して以来、人は互いの居場所を確認しながら話をするようになりました。

携帯電話で繋がるというのは、そもそもコードからコードへの通信なので、具体的な場所に固定化されていないはずなのに、私たちは、フィジカルな世界で生きている自分と、サイバー世界のコードで繋がっている自分との両方を把握しないとうまく話が回らないような気がしています。〇〇に今居る私から、〇〇に今ちょうど居る相手に向かって電話をしているというイメージを人は今でも必要としているのでしょう。

GPSで人が今どこにいるかが把握可能になっていくと、どこで今何をしているかが手に取るように分かるので、災害時の安否確認や緊急時の連絡は大いに助かります。とはいえ裏を返せば、いつでもどこでも常に確認可能な状況が訪れるわけで、自分の足跡を人に把握されたくないと思っても、いつも監視下、統制下に置かれた状態で私たちは生活することになります。

自宅、マイホーム、at homeの感覚、さらには自分だけの部屋という感覚も変化していくことでしょう。モノを購入し占有するという暮らし方から、一時的に所有するというシェアの文化へと移行しつつある現代、必要なものはその都度、オンデマンドで注文し調達し、不要になったら返却するという暮らし方が急速に普及しつつあります。

そうなると、自分好みの自分だけのモノで満たされた空間としての自宅や自室からは、本当に最後まで手放したくないごく一部のモノだけが残っていくことでしょう。フィジカル世界での自分の居場所よりも、サイバー世界での、Web上での私のコードのほうにむしろリアルに自分の居場所を感じ取るような感覚に私もそのうちいつの間にか馴染んでいくのかしら。。。時代の流れにたゆとうなかで、いつのまにか私の知らない私がむくむくと育ってきているような気もして、何か不安な感じもします。

 

メモをとる

「メモをとる」とは、書き残すという意味ですが、このメモとは、メモランダムからきている言葉。備忘録と昔は呼ばれていた記憶にとどめるための方法です。デカルトは自分の記憶力が弱いことをとても気にしていて、記憶力に頼った人間のそれまでの思考法ではない、新たな近代的思考法を確立しようと思い立ったともいわれています。

たしかに、記憶術の伝統は古く、文字による記録というものを文化に未だもたない時代には、語り部が繰り返し語る過去の物語が歴史伝承の方法でしたし、過去に見聞きしたこと、重要なことは、自分の記憶に留めておくしか仕方ありませんでした。

したがって、いかに記憶力を鍛えるかが重要で、記憶術の修得はとても重要とされました。頭のなかにたくさんの部屋のある建造物 -当時は教会や礼拝堂といった建物がイメージされていたようですが- を思い描き、自分がその建物のなかの様々な部屋をめぐるという設定で、記憶したい事柄を、建物のそれぞれの部屋に配置する。部屋一つひとつを強く自分に印象づけるために、部屋から部屋へとめぐって歩く自分のその時の感情にも注意し、自分に刻み付けていく。今に残された昔の記憶術の本をみると、こんな感じのことが書かれています。

識字文化の普及によって、紙に書き留めるようになり、また、複写機でコピーすれば書き写す必要もなくなり、音声や映像も記録可能、さらには大容量のデータ保存が一瞬で可能になった現代では、外付け装置に記憶させておけば済むというのが普通になりつつあります。

たしかに、紙媒体の記録にせよ、電子媒体による記録にせよ、災害や事故でそれらが失わてしまったとき、外付け装置に頼り過ぎた私たちの頭には、もうほとんど何も貯蔵されていないという状態で、それこそ大変なことになるのは目に見えています。

外付け装置の発明は素晴らしいことですが、自分たちが発明した外付け装置のおかげで、自分たち自体が困った状況をも引き起こしているのが、今の私たちの状況なのかもしれません。

 

距離を失くした私たち

今や瞬時に電送が可能な電脳空間を手に入れた私たちは、いつでもどこでもネットワークに繋がるならば、Web空間の好きなところにアクセスできるようになりました。家にいながら仕事仲間や友人、あるいは実空間では一度も会ったことのない人たちと繋がることができます。

いちいち出かけていく、つまり物理的な空間移動をする必要はもはやなく、物理的距離を乗り越える体制が確立しようとしています。時間と距離が測定され、碁盤の目のように張り巡らせた実世界をベースにしたコミュニケーションがすべてだった時代は終わり、時間や距離を測定すること自体がもはや意味をもたない新たな空間、サイバー空間と実世界とでなりたつハイブリッド型の世界を私たちは生きているともいえます。

いわばフィジカル世界とサイバー世界とが混ざり合って世界を創り上げつつある時代を生き抜くためには、この2つの世界の間を軽やかに往還できるようなフットワークの作法を手に入れなくてはなりません。

とはいえ、サイバー空間では距離そのものが意味をなさず、したがって、距離を測定するという具合に、測定作業そのものがもはや必要ではありません。自分と相手、自分と環境、自分とモノとの距離を測る能力は、これまでコミュニケーション能力の基礎でした。

サイバー空間でのコミュニケーションは、今まで普通に感じてきた距離感とは別の「感じ方」で自分の立ち位置を見極めていかなくてはなりません。フィジカル空間で「親しい」はずの間柄で交わされる「親密さ」には、単なる物理的な距離だけでなく、つき合いの距離、もっというなら心の距離のようなものがベースにあります。

サイバー空間での「親密さ」は、もちろんフィジカル空間でのつき合いをベースに人はイメージすることにはなるのですが、本当にそれでうまくいくとは限りません。フィジカル空間のエチケットは、ネット上での「ネチケット」とは一見したところ似ているようでも、かなり違うものであることだけは確かです。

私たちはこれまで、相手との物理的な距離や心理的距離を測りながらつき合い方を調整してきました。しかし、こうした距離がサイバー空間ではなくなって、一瞬にしてまさにリアルタイムであらゆるところと繋がっています。今のところは、現実世界での距離を手がかりにつき合い方を調整してはいますが、Web上で知り合い、サイバー空間でしか付き合いのない人たちとのコミュニケーションはどうしたいいのか、など、これまた体験的に学ぶしかないのでしょうか。

 

赤の女王

「ここではのう、同じ場所にいようと思うたら、あたう限りの速さで走ることが必要なのじゃ。もしどこか別の場所へ行こうつもりなら、少なくともその倍の速さで走らねばならん。」

『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王の言葉です。アリスの手をとって全速力で疾走する赤の女王。地面から足が浮くほどに速く走っているはずなのに、一休みしようと足を止めると、さっき走り出した地点にあったはずの木が目の前にあります。

あんなにたくさん走ってきたはずなのに、なんで元いた場所に今も居るの? アリスは訳が分かりません。アリスの国なら、走ったら、必ず別の場所に行くことができるのに、「この国」では、いくら走っても、場所を移動することができないのです。

進化論の学説から技術論の批評、さらには政局批判にまで、しばしば引用されてきた赤の女王のこのセリフ。目の前の現実をただ当たり前のこと、大昔からそうだったし、これからもそうだろうと思い込むことで安心したい人間に、揺さぶりをかけるに十分なインパクトを含んでいます。

すべての速度が急速に増しつつある社会のなかに生きる人間のあり様を風刺する一コマと解釈することもできるでしょう。

また、止まっているようにみえる現実も、実は常に動きのなかにある、そしてこの私もまた、動きつつ止まっていて、止まっていながら動いている・・・。

アリスと一緒に鏡の国をめぐっていると、なんだかめまいがしそうになってしまいます。

 

 

 

始末の智恵

 

関西では、昔から、商人(あきんど)は始末が肝心といわれ、始末のいい暮らしがよしとされてきました。始まりと終わりの帳尻が合っていることは、無理や無駄がないということ。始末のいい暮らしとは、もっぱら節約、倹約をすることと理解されているようです。

始めたものはいつかは終わる。これは物事の摂理ともいうべきもの。誰もが当たり前のように知ってはいるのですが、この摂理を分かって生きるというのは、なかなか難しいことです。日々の暮らし然り、人類の過ぎ越し、行く末然り。

報道によると、日本は、宇宙開発にともなって大量に放置されている「ゴミ」を回収する技術の開発に、世界に先駆けて取り組むといいます。既に使わなくなった宇宙船の船体の破片など、宇宙に散らばる「ゴミ」の数は急激に増大しているそうで、そうした破片とぶつかる危険は増すばかりで、1日に360回も衝突の警報が出るほどといわれます。

必要は発明の母といいますが、必要が技術を生み出してきました。技術は、人が編み出したもの、人が始めたもの。個々の技術は社会ニーズが日々刻々変化していくなかで、また新たな技術によって乗り越えられ、代替されていきます。

人が編み出したもの、人為によってこの世に現われたものである限り、技術の始末をつけるのも、私たちの仕事です。新たな技術に人は大きな期待を寄せますが、その技術が将来、どんな終わりを迎えることになるのか、技術の寿命も見据えながら技術とつきあっていくことが求められています。

始末の智恵は、技術大国ニッポンだからこそ発信していくことができる未来へのメッセージになり得るかもしれません。

 

 

 

黙って読む

読書の秋、本を読む人と聞いて思い起こすのは、一人で静かにページをめくる姿ではないでしょうか。読書は一人で黙って静かにするものというイメージは今や一般的です。読書好きというと、物静かな人なのかなと想像してしまいます。

しかし、束ねられたペーパーの上に連なる文字の列をひたすら眼で追う黙読が広まったのは、近代的な学校教育が普及してからのこと。読み書き算が学校で教えられていくなかで、声に出して読む音読だけでなく、目だけで読む黙読ができるよう、教育されてきました。

声に出して読む、暗唱する、あるいは書き写しながら読むなど、書かれた文字の読み方は本当は色々あります。喉や腹筋を使って、声に出し、空気を震わせ、その空気を全身で体感する音読。

自分の頭のなかのどのあたりに貯蔵されているかは分からないけれど、なぜか暗唱しようとする言葉がまるで堰を切ったようにあふれ出ていくようなあの感覚。

ノートに書き写すという作業は、その言葉なり情報なりを、自分のものにしてしまう、自分の貯蔵庫に入れてしまうという意味で、ワクワクする作業だったのですが、複写機が普及してからは、書写の意味はあまり顧みられなくなりました。

書写はお習字では、文字の形やバランス、書きぶりを模写することに力点が置かれます。けれども、文字を自分で書き写す、文章を書きとる作業は、書くという動きを通して、書き手の体験を想像力で辿っていく、追体験に本当は面白味があるのだと思います。

書くという動きを通して、書き手がそれを書いていた時空にアクセスすることで、同じ字、同じ文章も、その奥行が違ってみえてくるから不思議です。

紙の上に並んだ文字の連なりを眼で追うだけでは見えてこなかった、言葉の響きや言葉に触れた感じ、さらに書き手の筆遣い、息遣い、そして思いまで五感全体を働かせて迫っていくヒントが、音読や書写にはたくさん詰まっていました。

黙って読むのに慣れ過ぎると分からなくなっていることがほかにもきっとたくさんあるのだと思います。自分の身体を実験台に、この秋はいろんな読み方に挑戦してみようと楽しみです。

 

 

自然と人と人工と

鉄腕アトムは子どもの頃から馴染みのある存在。先日、偶然にWeb上で公開されている鉄腕アトムのアニメーションを見ました。手塚治虫氏は、アトムを人間以上に人間らしい存在として描こうとしていたことを改めて感じました。

最愛の息子をなくした博士が息子代わりの存在を制作しようと企図して誕生したのが鉄腕アトム。人間とまごうほどに人間に似ているけれども、アトムは人間の子どものように、博士と食卓を共にすることはありません。

食べ物を口にしないアトムに息子を喪失した寂しさも手伝って、博士はアトムに八つ当たりします。すると、アトムは、博士の心の空虚さ、寂しさを察して、「僕、食べられなくてゴメンナサイ」とロボットの身である自分の存在の限界について博士に謝るのです。

人間以上に人間らしいアトムの姿を通して、人間がその強欲さやわがまま、思い上がり、によって、どんどん人間らしさを失ってしまっていることが逆に見えてくるのです。

自然の一部であって、自然を操作し、人工物を制作してきた人間が、自然からも、また人間らしくあることからもだんだんと遠ざかっていきつつあるのでしょうか。